|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 長野県生まれ。地元の高校を卒業後、横浜の小さな広告社に入社 |
| するも、都会に馴染めぬ寂しさで半年で田舎に戻る。しかし職がある |
| 訳でもなく、すぐさま上京。新聞店の住み込み配達員など幾つかの |
| 職を転々、それでも30歳まで普通のサラリーマンを経験する。 |
| その間に結婚、娘も生まれ、30歳を機に漠然と自営の道を考える。 |
| ほぼ思いつきで雑貨屋を始めるが、半年で敢え無く挫折。 しかし |
| その頃出会った、ミュージシャン達の自由な生き方に強烈な刺激を |
| 受け、彼らを意識し模索しながら独学でバッグを作り始める。 後に、 |
| 渋谷にオープンしたばかりの東急ハンズと思いがけず取引が決まり |
| 本当に信じられない程の数が売れたのだった。そんな手探りの時代 |
| から30年近い歳月が流れ、2008年、須田帆布はつくばにて始まる。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 東京・池上本門寺のそばで生まれ育ち、高校卒業後よりM生 |
| 命保険会社に24年勤める。OL時代、谷川岳のスキー場にて |
| ボスと出逢い、はや30数年。ボスに収入の無い時期も家計を |
| 一手に支え、彼女なしには須田帆布の歴史は語れないという |
| 存在だ。お金の無かった時でも、週末になるとキャンプ・スキー・ |
| 山菜採り・きのこ狩りと、自然の中へ家族とよく出かけていたと |
| いう事だが、きっとお金では買えない、家族との貴重な思い出 |
| になっているに違いない。ボスのパートナーであり、スタッフ達 |
| にとってもお母さん同然。元気で明るい、まさに須田帆布のアク |
| セル・ブレーキなのである。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 大学卒業後、カナダ留学中より以前から興味のあった靴作りが |
| したく、靴の工房に弟子入り。靴職人として働くが、腱鞘炎を患 |
| い泣く泣く断念する。帰国後は、当然の流れのように須田帆布 |
| に入り、年月の経過と共に事の重大さに気づくのだが、 今や |
| ボスの片腕として、取引先の信用も厚い。バッグ作りにおいて |
| はまだまだ修行の身との事、バッグ屋としての活躍にさらなる |
| 期待が懸かる。手先が器用なのは父親譲り、仏(?)心を持つ |
| のは母親譲りとは本人の談。 底抜けに明るく、誰にも愛される |
| キャラクターは、やはりよく似た親子なのかも知れない。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 日本に来るまでの6年間、靴職人としてカナダ・バンクーバー |
| にて勤める。靴の工房で培われた忍耐強さと、細部への行き |
| 届いた感覚は、バッグの工房へ変わっても物作りをする上で |
| 彼の最大の要素となっているに違いない。日本に移り住むと |
| 同時に、須田帆布のスタッフとなってまだ数ヶ月。故郷を想う |
| 気持ちは勿論の事、バッグに対する情熱も人一倍。頭の中は |
| いつもバッグの事で一杯で、自分のデザインしたバッグが早く |
| 作れるようにと今日もミシンを踏んでいる。 シャイではあるが、 |
| 人と接するのが大好き。お店でたくさんの方とお会いできるか |
| と思うと、今から胸が躍るそうだ。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 20代前半、バイクツーリングという一大ブームへ見事に乗り、 |
| 休日は日本中をバイクで駆け回る生活をしていたという。 |
| さらに後半にはアウトドアに目覚め、仕事としても従事するよ |
| うに。その頃、職場へ納品の為出入りしていた現在のボスと |
| 知り合い、須田帆布へ入るきっかけとなる。売り場に居た経 |
| 験から、営業の要として信頼も厚い。また自らもミシンを踏み |
| 説得力あるサンプル作りに余念が無い。腰痛改善に始めた |
| というヨガとピラティスは、語りだしたら止められない程どっぷ |
| りはまり、すでに趣味の域を超えている。 |
|
|
|
|
|
|
|
| 高校から音楽の道に進むも、短大での映像の授業に惹かれ |
| 何故か写真に転向、卒業後プロラボのプリンターとして約15 |
| 年勤める。その間、須田帆布のバッグを購入したのがきっか |
| けでボスと知り合い、後に我家我家にて月1回、幻の「葵Bar」 |
| を開催するようになる。その時のお酒がボスにどう作用したか、 |
| 2007年9月、須田帆布へ入社するに至る。普段は、いかに美 |
| 味しく飲み、いかに音楽を楽しみ、いかに本を読むかが最優 |
| 先。何事も徹底的な性格ゆえ、一日24時間では足りないの |
| かも。現在、2本のギターと同居中。 |
|
|
|
|
|
| Copyright (C)2002-2008 SUDAHANP All rights reserved. |
|